6815 | 相手の目を見て話す | はくぶん | 2015-09-09 07:45:45 |
話す時は、相手の目を見て話せ、とは世間でよく言われることである。 相手の目を見て話せないのは、真意を隠しているからだとか、自分に自信がないからだとか、色々理由はあるようだ。 確かに相手の目をずっと見つめて話す人もいる。 こっちが視線を反らせたくなる程、じっと凝視して来る。 お手本的な話し方なのだろうが、しかし、そんな態度を見て、俺は不自然さしか感じない。 その視線や顔付きから、必死にこっちを見ているようにしか見えないのだ。 多分、話すときは相手の目を見て話せ、という教えを一生懸命実践しようとしているのだろう。 そんな風に思えることが多い。 もちろん目を見ながら話す雰囲気が自然に感じる相手もいる。 しかし、そういう相手は決してこっちをずっと凝視したりはしない。 主に目を見て話してはいるが、途中で視線を外すときもある。 そういった程よいバランスが自然な雰囲気と感じられるのだろう。 かく言う自分は、相手の目を見て話すのが苦手である。 別に真意を隠しているわけでもないし、自分に自信がないわけでもない。 むしろ相手との会話を楽しみたいとすら思っているくらいだ。 しかし、ずっと一点を見つめて話すことは出来ないのである。 それは相手の目に限らない。 目の前のコップであろうと、壁に掛かった絵であろうと、テーブルクロスの柄であろうと、ずっと同じ所を見続けながら話すことが出来ないのである。 それはちょうどずっと同じ姿勢で座っていることに似ている。 座っている間に、時々体勢を変えないと辛い。 特に正座をするときは、頻繁に体勢を変えないと、足が痺れて立てなくなってしまう。 そういうわけで、俺が誰かと話すときは、常に色んな所に視線を投げかけている。 色んな所に視線を移すことによって、色々考えが湧いて来て、その結果、相手との会話も弾む。 よく考え事をする人は、考えている時に歩き回ることが多い、と言われる。 歩く事によって、脳が刺激され、いい考えが浮かぶのだと言う。 そして、それは人間科学的に見ても、理に適った行動なのだと。 俺のしていることは、要はそれと同じことなのだ。 相手の目に限らず、ずっと一点を見つめていると、何も考えが浮かばずに、その場で固まってしまうのではないかと思う。 誰かと電話している時、俺はよく部屋の中を歩き回る。 座って電話できないわけではないが、歩き回る方が会話が弾む。 昔からそうなのである。 常に目をキョロキョロさせながら考える癖がある。 普段から視点はあまり定まっていない方だとも思う。 常に視線を色々な所に移しているのが、自分にとっては自然なことなのだ。 しかし、何か閃きがあり、それを完全に掌握しようとしている数秒間は、視線はピタッと止まる。 例えば、今まで思い付かなかったプログラム処理を思い付いたり、今まで作ったことのない雰囲気のメロディが浮かんだり。 油断すると瞬く間に儚く消え去ってしまう。 もう二度と思い付かないかもしれない。 消え去ってしまう前に、必死になって掴もうとする。 そんな時、俺の目はどこか一点を凝視している。 会話でそんな真剣勝負な内容が出て来ることは先ずない。 もしあったとしたら、その数秒だけは、俺の視線はどこかを見たまま、ピタッと止まるだろう。 そんな俺だから、相手が俺の目をじっと見続けながら話をしていることに、非常に違和感を覚える。 目が正座したままで辛くないのかい? 一点を見つめ続けて、頭はリラックスして動いているのかい? それが、そんな相手に対する俺の率直な感想だ。 相手の目を見て話をする。 それはとても大事なことかもしれない。 しかし、上記のような理由で、それが出来ない人間もいるということを知って欲しい。 真意を隠したり、自信がなかったり、決してそんな人ばかりではない、ということを。 |
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