7346 あいつの言葉 はくぶん 2017-11-03 07:59:15
昨晩、高校時代の同級生と飲んだ。
地味な奴で、話す内容もごく普通。
俺がハッとする言葉など、そいつの口から聞くことはないと思っていた。

「相対的に見るな。絶対的に見ろ」
俺の話を聞いていて、そいつは俺にそう言った。
他人と自分を比較する。
俺の話の中に、そういう要素を感じ取ったのだろう。

若い頃、俺は自分を誰とも比較しなかった。
人は俺を誰かと比較したかもしれないが、俺は他人との比較とは無関係に生きていた。
それは自分の中に理想というか基準というか、そういう絶対的な形があったから。
他人と競い合ったところで、その形を実現できるわけではない。
他人が自分に対して、どれだけ高評価を与えようと、その形が実現できていなければ、満足など微塵も感じない。
逆に、その形を実現できれば、他人が自分をどう低く評価しても、自分は満足だったのである。
つまり、自分自身の満足は、自分の目標が達成できたかどうか。
その一点に掛かっていたのである。

自分では、その姿勢は、若い頃からずっと変わっていないと思っていた。
しかし、昨晩の俺の話の中で、あいつは俺の中に、比較を意識して生きている姿を感じ取ったのだろう。
社会に出ると、自分の理想の形は、単なる自己満足と批判されることもある。
そしてそれは、純粋な客観的視点ではなく、妬みや劣等感に立脚している場合もある。
いずれにせよ、どれだけ理想の形を実現したかではなく、どれだけ結果を残したかである。
結果とは売り上げであり利益である。
どんなに汚い手を使っても、どれだけ姑息に立ち回っても、結果を残した者が評価される。
そんな中でずっと生きて来て、理想の形を実現することでしか満足できなかった俺が、知らず知らずの内に、他人との比較という果てしない泥沼の中に足を突っ込んでいたのだろう。
しかし、それで満足が得られたか、と問われれば、答えは否である。
他人との比較は、どこまで行ってもゴールはない。
どちらかが辞めるという終わりはあるが、ゴールはない。
それに対し、理想の形を実現していた頃は、常に大きな満足があった。
それは明確なゴールがあったからだ。
自分が定めたゴールだから、常にそれは明確だ。

今確かに思うことは、満足する機会が少なくなった。
そして、今でも残っている自分の理想を追いかける場面、時間。
やり遂げた時には満足が残る。
しかし、そんな瞬間は、日常のごく一部に限られてしまっている。
あいつはそれを、俺の話から何となく感じ取ったのだろう。
だから正確には、こう言ったのだろう。
お前の日常を一つも相対的に見るな。日常全てを絶対的に見ろ、と。
あいつは何故か俺の可能性を知っている。
しかし、いつもありふれた言葉で、ありふれた事しか喋らない。
だから、俺の心には殆ど響かない。
昨晩のあいつの言葉には、真実を語る者だけが持つ迫力と説得力があった。

相対的に見るな。絶対的に見ろ。
もう一度、高校時代の自分に返ってみようと思う。
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