7686 | ゆっくり | はくぶん | 2021-01-06 00:26:50 |
自転車でちょっと遠出するときに、よく思うことがある。 今日は急がずにゆっくり走ろう、と。 走っている最中も、何度も思い返す。 汗をかかないように、急がずゆっくり走ろう、と。 しかし、それが達成されたことは一度もない。 目の前に立ちはだかる上り坂。 前もって勢いをつけないと上り切れない。 途中で勢いが無くなると、そこから先は筋トレの気分を味わう。 だから、急いでいるわけではないが、ゆっくり走ることができなくなる。 目の前に赤になりかけている信号が見える。 急いでいるわけではないから、赤になれば待てばいいのだ。 しかし、それを間一髪で渡ろうとする。 効率的貧乏性が顔を出す。 ガンバ大阪の司令塔であり、日本代表でもあった遠藤保仁が、テレビのトーク番組で、こう言っていたのを思い出す。 急いでも得することは何も無いと、いつも思ってしまうのだ、と。 だから小さい頃から急ぐことができないのだ、と。 親がそうだったのだろうか。 親にそう育てられたのだろうか。 競争の激しいプロサッカーの世界で、急ぐ気持ちを持たないで成功できたことが不思議である。 しかし、急ぐことができないとは、あくまで本人の意識である。 本人が単にそう思っていただけで、本人の意識に反して、その行動はむしろ充分に速かったのかもしれない。 急ぐ気持ちは焦りにも似ている。 焦って空回りするより、落ち着いて着実に進んだ方が、結果的には遠くに達し、多くを得るだろう。 急いでその赤信号を渡っても、その先で遠回りな道を走ってしまったら、結局到着は遅くなる。 逆にゆっくり走っても、一つも赤信号に引っ掛からなければ、赤信号をいくつか無視した人に、どこかの赤信号でいつの間にか追い付いている。 自分にも一度だけ、ゆったりが多をもたらした経験がある。 今でも、この経験は、自分の人生の指針のように感じている。 大学時代、民法財産法の試験。 いつも焦って答案を書く自分が、なぜかその試験だけは、ゆったりした気持ちで答案を書いていた。 答案用紙の裏まで書くことが目標だった論述試験で、いつも答案は裏の最初の方か、真ん中くらいで終わっていた。 しかし、その答案だけは、いつも以上に綺麗な字で、途中で間違いを二重線で消すこともなく、早めの退出が認められる時間が来る頃には、裏面までびっしり埋まっていた。 はやきはこけるといひて、間にあはず、勿論おそきも惡シ、是も上手のする事は緩々と見ヘて、間のぬけざる所也 五輪書 宮本武蔵 |
|||
メッセージ文字数:1037/1076 | |||